表現について

試行錯誤が不可欠な領域と、そうでない領域がある。 
そして独自性や作家性が生まれるのは、常に試行錯誤の先である。

クロード・モネは、写実主義が一定の完成を迎えた後に《印象・日の出》を描いた。 
パブロ・ピカソがキュビズムに至ったのも、単なる思いつきではない。 
そこには時代背景、技術的制約、そして彼ら自身の人間的な欠落や制約が複雑に絡み合って生まれた結果である。 
重要なのは、意味づけは常に「後から」なされるという点。 
作品がまず具現化され、その存在が社会や他者に晒された後に、初めて文脈や評価が付与される。 
創作とは、意味を狙って生み出す行為ではなく、試行錯誤の果てに残ったものが、結果として意味を帯びる営みである。

現在のAI時代におけるクリエイティブは、あまりにも表面的である。 
生成AIは、安定して「60点」のアウトプットを生み出す。 
破綻しない、無難で、一定水準を下回らない成果物。 
しかし本来、ゼロから何かを作り上げる過程で生まれるはずだった「こだわり」や「執着」は、その過程ごと短絡されてしまう。 
時間をかけること、迷うこと、失敗すること、その中でしか育たない感覚が削ぎ落とされてしまう。
作品とは、本来、作り手自身が最初のファンになるべきものだ。
何度も見返し、触れ、疑い、それでも手放せなかったものだけが、他者に届く強度を持つ。
AIによる制作は、その「作り手自身が惚れ込むまでの時間」を奪ってしまう危うさを孕んでいる。

そしてその感覚を作り手自身が無自覚になることが問題なのである。


写真に関してはどうだろうか。
ファインアートフォトと記録写真の違いは何か。
その被写体を最も美しく撮る時間帯はいつか、天候は何か、何秒露光すると良いか、なぜこれらの条件を撮影者たる私が美しと思うのか。これらの観点を徹底的に磨いた先に独自性のあるファインアートフォトを制作できると考える。

写真もまた、生成AIと同様に、何も考えなくても「それなりの一枚」を得ることはできる。
そう思うと、写真も生成AIもツールとして捉えたときに大きな差はないのかもしれない。


スナップショットと生成AIもかなり似ているように思う。 スナップショットであっても、そこに写る人物の肖像権や文脈への配慮は必要だ。AI生成も同様である。

それでもなお、スナップショットが写真表現の一手法として受け入れられているのはなぜか。

スナップショットでは、

  • 場所は、ロケハンによって選ばれ、現実の制約の中で設定される
  • 被写体は、自然体に振る舞う人や、既にそこに存在しているもの
  • シャッターを切る動機は、光、コントラスト、構図、あるいは記憶を喚起する何か

一方、AI生成では、

  • 場所は物理空間ではなく、モデルのパラメータや潜在空間
  • 被写体は、特定の個人ではなく、概念や集合的記憶の交差点
  • シャッターは、潜在変数が確定する瞬間、つまり生成そのもの
  • そしてカメラパラメータはモデルのサンプリングメソッドやハイパラと同じ意味と考えても良い。
項目スナップショット(現実)AIスナップ(生成)
場所ロケハン、物理的な街角モデルのパラメータ、潜在空間(Latent Space)
被写体自然体に振る舞う人、既にある物概念の交差点、集合的記憶のイデア
カメラ光学機器、レンズサンプリングメソッド、ハイパーパラメータ
シャッター物理的な露光の瞬間潜在変数の確定(Latent resolution)
動機光・構図・思い出の想起概念の調和・未知の視覚化・集合知との共鳴

しかしながら、基本的に生成AIに介入する手段は言語だ。
スナップ的に画像を生成するなら言葉以上に手軽で表現力のある介入手段があろうか、ない。 
とすると、最終的に、この議論は「言葉の美しさ」に帰結してしまう。 
しかし、美しい言葉を使ったとて、必ずしも美しい画像を生成できるわけではない。 
言葉と視覚情報は意味上では合致しても美しさという観点では本質的に交わることはできない。 

生成AIを芸術へと昇華させるためには、「言語で操作する」という前提そのものを疑う必要があるのかもしれない。

試行錯誤、時間、欠落、そして作り手自身が作品の一部となるまでのプロセス。 
それらをどのように取り戻せるのか。 
AI時代のクリエイティブにおける、最も本質的なテーマなのだと思う。